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巧株式会社 代表取締役大橋 大記
巧株式会社 取締役田渕 淳仁

出会いは高校。
学校では接点の無い二人をバンドが繋ぐ。

──お二人の出会いは?
大橋

追手門学院高校で1年生の時に同じクラスだったんだよ。たまたまクラスにギターが上手いやつがいて、気がついたら周りの何人かでバンドを組むことになって。そのメンバーにぶっちゃん(田渕取締役)がいた感じかな。

田渕

そうそう。でも学校での思い出って不思議とないんだよ。俺は俺で学校には学校で仲の良いやつらがいて。大橋(大橋社長)はほとんど学校来て無かったからね。(笑)

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大橋

ぶっちゃんとの思い出はほとんどがスタジオと電話。電話ではよう喋ったなあ。
スタジオは豊中の栄光スタジオ。お化け屋敷みたいにボロボロだったけど、とにかく時間も忘れて練習したなあ。
そこからメンバーが抜けたり入ったりはあったんだけど、ぶっちゃんと俺はずっと固定で。ヤマハとか大阪のラジオ局主催のコンテストに受かったり、当時は“バハマ”ってライブハウスを中心に活動していて、これでも結構人気だったんですよ。(笑)

──当時一番の思い出は?
田渕

僕が彼女に振られた時かな。確か練習の後だったと思うんだけど、わざわざ大橋が車でうちまで慰めに来てくれた事があった。
なんか僕が泣かせてもらった思い出がある。(笑)

大橋

そんな事あったっけ?(笑)

それぞれが引き抜かれ、別々の道へ。

──そんなお二人が別れられたキッカケは?
大橋

ぶっちゃんが引き抜かれたタイミングかな。当時引き抜きは日常茶飯事だった。

田渕

この2人のバンドだったんで、僕は辞めるつもりなくて大橋に相談に行ったはず。
そしたら『行けよ。チャンスだろ』って。大橋は大橋でライブハウスを仕切っている人から別のバンドを薦められていて。そんな流れだった。

──その後、お二人はそれぞれどのような道を歩まれたんでしょうか。
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大橋

俺が参加したバンドはプロモーターの言いなりで、全然自由が無かった。
当時が人生で一番音楽を嫌いな時期でしたね。
それでそのまま大学も就職もせず音楽やるんだと思ってたんだけど、神谷先生って変わった先生が高校にいて。
ダブって4年目の時だったんですけど、毎日彼がうちに来るんですよ。「行くぞー」「着替えろー」って。
それで自分が知らない俺のいいところを見つけて認めてくれて。「お前は歌詞書いてるから小論文で大学目指せ」とか、家中にある野球や柔道でもらった賞状持っていってコピーして「俺がなんとかしたる!」って。
それが無かったら俺が大学にいくなんてあり得なかったと思う。今でも人生の恩師だと思っているんだよ。

田渕

僕はその後色んなバンドを経験して、一応メジャーデビューもしていて・・・。(笑)そのメジャーバンドを離れてからも音楽スタジオで社員として働きながらバンドの活動してって生活をずっと続けていた。
音楽から離れることは想像してなかったかな。

再会は一本の電話。二人の夢が10年ぶりに重なる。

──そんなお二人の再開はどんなタイミングだったんでしょうか?
大橋

俺は26歳くらいのタイミングで親が無理やり就職の話を決めてきて、岩谷産業さんの空調の部署で働きはじめました。
そこの会長(当時は社長)から初日に『君はサラリーマンの器じゃない。仕事を覚えたら辞めなさい』って。初日ですよ?(笑)
それで予言通りというか3年勤めて独立しました。基本はずっと1人で営業して運用してって言うのを続けていましたね。
その間も年に1回ぐらいはぶっちゃんと話す機会があって。
ちょうど彼が結婚を考えている時期だったので『いつまでそんな生活するんや。うちに来い』って誘ったのがきっかけかな。

田渕

僕は大橋とのバンドを解散した時の事がずっと頭に残っていて。あの決断は正しかったのか。
それで10年経って巧の仕事を手伝うことになり、仕事もすごく面白くて。
次は最後まで一緒にやり抜くつもりで決意が固まりました。『音楽で出来なかったことを、仕事で必ずやりたいと思う』みたいな事を大橋に言った記憶がありますね。

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大橋

そうそう。でもそんなこと言われても俺もこっ恥ずかしいから「ああ、そう」みたいな。(笑)
でも条件として、彼が東京に拠点を置いていたので、『本気なら大阪に戻ってこい』と伝えたのを覚えています。
ちょうどぶっちゃんの他にも1人従業員がいたんですが、彼が入社したすぐのタイミングである日2人で出社したら事務所からその子の荷物が一切合切無くなってて。(笑)まさに2人でイチからのスタートでしたね。

窓の無いレンタルオフィスからのスタート。
赤坂サカスの前で誓った飛躍。

──現在本社がある東京への進出はどんな経緯だったんですか?
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大橋

ちょうど関東での仕事の引き合いが多くなって、そこから東京進出を具体的に考え始めた感じかな。
でもまだ全然資金も無かったから立派なオフィスなんか借りられるわけもなくて、それでレンタルオフィスを探すことにしたんだよ。
そこでたまたま空いていたのが赤坂のレンタルオフィスで、そこがとにかく狭かった。窓も無くて、レンタルオフィスとは名ばかりでレンタル倉庫みたいな場所でした。

田渕

東京事務所の立ち上げはすごく大変でしたが、本当に面白かったですよ。僕がメジャーで音楽やっていた時に特に思い出に残っているライブ会場が赤坂ブリッツだったんですけど、10年の時を経て再び大橋と、そしてまさかビジネスを舞台に赤坂で勝負をするとは思ってもみませんでした。

大橋

それぞれ夢破れて一度東京から大阪に戻ってますから、二度目は無いぞって。赤坂サカスの前で『絶対に成功させるぞ』と誓いあったのを今でも覚えています。

一番楽しい時は今。
空調業界に革新を起すべく進化を続ける巧株式会社。

──お二人の今後の夢は?
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大橋

今まではある程度僕が引っ張ってここまで来たけど、今はぶっちゃんもそうだし、樋口(経理)や内藤(部長)もいる。
今度は彼らに僕がしてきた体験をさせてあげたい。そして彼らが会社を大きく成長させる過程を見るのが一番の楽しみかな。
勿論、僕も頑張るよ。(笑)

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田渕

僕も近しいですが、まずは組織を5年で空調の設計・施工管理部門、システム構築部門、事務サポート部門、総合営業部門の社内構成で2倍の人員にしたい。僕もそうですが、他業種からも大歓迎。実際、大物ヒップホップアーティストとユニット経験がある社員も一緒に働いています。そのメンツが今後の会社の根幹を支えてくれる人材になるはずで、そういう仲間と今の事業にとらわれずに色んな事にチャレンジしたいですね。

大橋

僕のビジネスマンの原点として『人に必要とされる』って言うのが強くあって、自分たちの存在意義がそこに集約されていると考えています。
なので、これからも多くのステークホルダーから『必要とされる会社』であり続ける為に、時には自分たちの古いやり方を壊しながら、常に進化をし続けたいですね。
特に僕たちがいる空調業界はまだまだ古い慣習や規制が多いですから、バンドマン上がりで固定概念に囚われない巧株式会社だからこその価値を創造していくつもりです。

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